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 算法少女は2冊ある。少年少女歴史小説の1冊と、その元になる江戸時代に出版された 算法書である。ここでは2冊の
算法少女と、そのころの和算の概略を紹介する。

目次

( 1) 少年少女歴史小説の算法少女
( 2) 算法少女の時代
( 3) 塵劫記と遺題継承
( 4) 和算家の系譜
( 5) 算法少女の和算家たち
( 6) 算額
( 7) 算法少女の中の問題
( 8) 算木と計算法
( 9) 和算書「算法少女」
(10) 和算書「算法少女」に関する資料

( 1) 少年少女歴史小説の算法少女

 著 者遠藤寛子
 出版社岩崎書店
 発行年1973年
 著 者遠藤寛子
 出版社ちくま学芸文庫
 発行年2006年

 この本は小学生から大人まで、とくに高校生の時一番読んで欲しい本である。

江戸時代1770年頃、算法(数学)を趣味とする町医者千葉桃三の娘あきは、父から算法の手ほどきを受けかなりの技量に達していた。ある祭りの日 浅草の境内に掲げられた算額の誤りを指摘したことから当時の算法の主流派である関流からにらまれ、久留米藩藩主有馬公の面前で 算法勝負をすることになってしまった。・・・

数学に関する本を手に取ろうという人は少ないと思われる。また数学を題材にした小説が何冊も出版されているが (数学史の文献のページ参照)それらの小説のほとんどは数学を題材にしなくても良いものである。 ところがこの本は数学そのものを題材にする必然性のあるもので(だからといって数学の専門書ではない)、数学に向き合う姿勢が実にわかりやすく 登場人物に表されている。内容も読みやすくそれでいて読み応えがあって、なおかつ考えさせられて 中にあるいくつかの問題もやってみたくなる(高校1年生レベル)、そして日本の数学(和算)の歴史とその中身について かなり理解できるという、素晴らしい本である。

 数学史は単に発明、発見や数学者のエピソードではない。社会の中における数学、つまり社会との関わりが不可欠なのである。そして世界の中で独自に発達した和算を誰もが理解する(現代から見れば江戸時代なんて遅れているようにしか認識がないように思えるが、決してそうではないことが分かる)のにふさわしい本は、この算法少女以外には無い。

 長らく絶版になっていたこの「算法少女」が2006年8月に筑摩書房の学芸文庫として再刊され現在まで19版まで増刷されている。ぜひ手にとって読んで欲しい。

( 2) 算法少女の時代

 和算書「算法少女」が出版された1775年(安永4年)は徳川10代将軍家治の時で、この3年前に田沼意次が老中になっていて、 田沼時代が続いているときである。前年の1774年に解体新書が出版されている。また1750年 頃から、飢饉、打ち壊し、百姓一揆が激化して全国的に江戸幕府に対する不満が表面化してきた 時でもあった。
 このような時代に出版された和算書「算法少女」、そしてそれを題材にした歴史小説算法少女。

算法少女に関する年表

西暦  年 号 書  名 編著者等 歴史上の出来事 算法少女の出来事
1622 元和 8年 割算書 毛利重能
1627 寛永 4年 塵劫記 吉田光由
1639 寛永16年 堅亥録 今村知商
1640 寛永17年 因帰算歌 今村知商
1641 寛永18年 新編塵劫記 吉田光由
1674 延宝 2年 発微算法 関孝和
1722 享保 7年 宅間流円理 鎌田俊清
1761  千葉あき誕生
1769 明和 6年 拾B算法 有馬頼C
1774 安永 4年 解体新書 杉田玄白  千葉あき(13歳)浅草寺での出来事
1775 安永 5年 算法少女 壺中隠者
1783 天明 3年  有馬頼C死去
1785 天明 5年 改精算法 鈴木安明
    

( 3)塵劫記と遺題継承

 日本人の書いた数学書は1600年頃の「算用記」が、最古の物だといわれている。続いて 1622年「割算書」、1627年「塵劫記」が出版された。後者は当時のベストセラーとなり、10版 以上も改版されて江戸時代の庶民の教科書とも言える本であった。(注 塵劫記は 岩波文庫 青版 24-1にある)
 塵劫記は挿し絵入りの数学解説書で実用書であり、以下に示すように簡単な内容で、大変分かりやすく かかれている。

塵劫記の内容
大きい数及び小さい数の名度量衡や貨幣整数の性質比例
利息算級数平方根及び立方根幾何図形
相似形面積体積測量

などが日常的に必要な形の問題にされて書かれている。

例えば
 米売買のこと銭や小判の両替のこと
 船の運賃のこと升の寸法や容積のこと

そしてさらに興味を持つような

 日に日に倍々のこと (阿波の長者の米粒問題)
継子立て (小石を30個並べて取っていく問題)
 ねずみ算 油分け算 百五減算

などの問題も載っている。

 このような本が江戸時代初期に出版されていることは、今から考えても大変なことだと思われる。この本が名著とされる エピソードがある。久留島義太という武士が浪人の身となって江戸へ出てきたとき、ふと夜店で買った「塵劫記」が大変面白く これなら自分でも教えられると考えて、数学塾を始めたという話である。(久留島義太を主人公にした小説が 「算士秘伝」 新田次郎  新潮社)
 著者の吉田光由は、御朱印船により富を得た角倉一族の出で、角倉家は医者、実業家、文化人など、数多く輩出している名家 であることがわかっている。

 塵劫記に続いて出版され評判を呼んだた本が、今村知商の「堅亥録」「 因帰算歌」である。今村知商は吉田光由とともに毛利重能 の門に学んだ兄弟弟子で、「塵劫記」に対抗して当時の最高の水準を示した数学の公式集として、「堅亥録」を刊行したのである。  さらに翌年、「堅亥録」をすべて歌で易しく解説した「 因帰算歌」を出版した。 この本が評判になって今村知商の人気が出ると、吉田光由も負けてなるものかと思ったのか、翌寛永18年「塵劫記」を改版した「新編塵劫記」を出版した。この本には巻末に12問の問題が出されていました(これを「好み」といった)。それは数学を教えている者の中にそれだけの力があるか、この問題を解くことで判定して欲しいという、作者からの世の中の数学者に対する挑戦状であったわけである。その後、問題の解答を載せるとともに新たな問題を載せた本が次々に出版され、いわばリレー式に問題を出題、解答するようになった。これを遺題継承と呼んでいる。
 この風習は江戸時代後期まで続き、数学の発展と伝搬に大変役立ったのである。

( 4) 和算家の系譜

 遺題継承の全盛期にそれを勉強して日本随一の数学者になったのが関孝和である。この関の業績が素晴らしいものっだったので多くの弟子が集まり、素晴らしい数学者が続出した。  関流という名称は松永良弼の本に出てくるのが最初である。次に掲げるのは和算家の簡単な系譜である。

今村知商--村松茂清
毛利重能--吉田光由
高原吉種--関孝 和
安島直円--------
荒木村英--松永良弼--山路主住--藤田貞資--神谷定令
関孝 和--久留島義太有馬頼ゆき
建部賢弘--中根元圭--中根彦循--本多利明--会田安明--
入江修敬-
 -千葉桃三--千葉章子
(壺中隠者)(あき)
宅間能清--阿座見俊次--鎌田俊清--内田秀富--松岡能一--

 このほかに麻田流、中西流、真元流、至誠賛化流などの流派があるが、ほとんどが関流から派生したといってもいいくらいに関流の影響を受けている。 しかしこの和算家たちも、江戸時代末期に入ってきた洋算に次第に駆逐され、明治5年の学制において「和算廃止、洋算専用」の命が下され遂に終わりを告げたのである。

( 5)「算法少女」の和算家

有馬頼ゆき(1714〜1783)

16歳で久留米藩第7代城主となり32歳にはもう数学書を書いているので、かなり以前から数学の研究を始めていたようです。山路主住を師とし、家臣に安島直円、藤田貞資、入江修敬らをかかえ研究しているので、当時の最高レベルにまで達していました。53歳までの20年間に40種の著作を完成していますが、出版されたのは『拾き算法』五巻だけでした。
この本は関流の最高峰である点鼠術(筆算による代数)と円理(円周率、円弧の長さ、球の体積などの問題の総称)の公開を初めてした本です。それ以前にもそのような数学書は出版されていましたが、きちんと系統だった本はなかったのです。また従来の本には書かれていなかった事(解と係数の関係、二項展開、順列組合せ、級数の和、極大極小など)も載せられていました。なお「算法少女」にもあるようにこの本は、豊田文景とい家臣の名前で出版されています。

藤田貞資(1734〜1807)

武蔵国本田村の本田家の三男として生まれ、大和新庄藩の藤田定之の養子となる。山地主住の暦作りの観測の手伝いとして幕府に召されるが、眼病のため辞して、34歳のときに有馬頼ゆきに召抱えられました。頼ゆきの援助により『精要算法』を出版して広く世間に知られるようになりました。この本の序文に貞資の考え方が表われています。「いまの算数に用の用あり、無用の用あり、無用の無用あり……」すなわち実用の算数と、算数の本質に値する問題ならば良いが、単に技巧に走り誇らんとするための意味のない問題はこの本に載せない、というのであります。今日の入試に対する批判にもなりそうですね。それでいて貞資は『神壁算法』という本で全国の算額を集めた問題集を出版していますが、その中には無用の無用の問題もあるのですから、今ひとつ立場が曖昧であることも事実なのです。

本多利明(1743〜1820)

 加賀において代々代官を務めた本多家に生まれました。18歳で江戸に出て、天文学、数学、蘭学を学び、24歳で音羽に塾を開き、音羽先生と呼ばれるほどに門弟を育てました。その数なんと数百名にのぼると言われています。後に高弟に塾を預け、自分は全国を回って国を豊かにするには海外諸国との貿易が必要であると唱え、航海術の本を書くなど啓蒙に励みました。さらにヨーロッパ諸国の発展に学び日本も数学教育に力を入れる必要があると述べています。  利明の晩年にロシア人が函館まできたとき、幕府が特使として利明を派遣しようとするほどでした。そのときはもう66歳になっていた利明は、門人の最上徳内を推薦したということもありました。このように数学だけでなく、経済学者、地理学者としても当時の最も優れた人物だったのです。  利明は関孝和の墓の手入れをし、そこに記念碑も建てています。関孝和は子がいなく甥を養子にしましたが身持ちが悪く家は断絶、そのため墓は長い間人に知られず荒れてしまっていたのです。それを知った利明が友人と共同で直したのでした。戦災で破壊したその記念碑も戦後復元されて、現在は墓とともに浄輪寺(新宿区弁天町)に見られます。

会田安明(鈴木彦助)(1747〜1817)

山形に生まれる。数学に志すようになったきっかけは、知恵の輪が解けたことであったらしいのです。安明8歳のときでした。その知恵 の輪は形から「九連環」ともいわれ、今日でも五連環ぐらいのものがデパートなどに売られていますし、飛騨地方の民芸品にもなって います。安明23歳の時に江戸へ出て旗本の株を買い鈴木家の養子になって鈴木彦助と名乗りました。勤務は御普請役で、小貝川、鬼怒川、手賀沼などの土木、水利、治水工事の現場監督でした。35歳のときに出版された藤田貞資の『精要算法』に刺激され数学の勉強に励みました。しかし御普請役の仕事が忙しすぎておもうようにいかなかったようです。それでも芝の愛宕山に算額を奉納するなど少しずつ勉強しており、同役の御普請役に藤田貞資の高弟神谷定令がいたのでそのつてで藤田貞資の弟子になろうとしたのです。ところが初対面のときに、「愛宕山の算額の誤り(答えが桁を取り違えていた)を訂正すれば弟子にしよう」と藤田貞資は言ったらしいのです。負けず嫌いの安明はその藤田の言葉に憤慨し藤田の『精要算法』の誤りを訂正して見返してやろうと思い、『改精算法』を出版しました。時に安明38歳。間に立った神谷は自分の立場をはっきりさせるため安明を攻撃せざるを得なくなり、ここに神谷定令対会田安明の論争が始まったのです。ところが神谷の側に関流の有力な数学者安島直円が付いたため安明は個人対個人の論争では相手に分があると思ったのでしょう自分の塾を最上流(さいじょう流と読む)と称し、流派の間の論争にしたのです。ここに17年間に及ぶ関流対最上流の論争が始まったわけです。論争といっても、互いに相手の本の不備な点を指摘する本を出版し合うというもので誹謗中傷に近いものでした。しかしこれが一般の人々にも数学に興味を抱かせるきっかけになっています。  安明41歳のとき、十代将軍家治が死去、御代替わりとしてお役御免となり浪人になってしまいました。安明はこれを機会に数学一筋に生きる決心をし勉強に励み、また多くの弟子も育て、著作も600冊、数学以外を含めると、2000冊にのぼります。会田安明は山形では郷土の偉人として尊敬され、何年かごとに記念祭も催されています。

鎌田俊清(1678〜1750)

 日本で初めて円理のπの公式を発見し、25桁までの正確な値を計算しました。これは東大に伝わるただ一冊の『宅間流円理』によって判ったものです。それによると俊清は現代の πの級数展開とおなじものを導いていることがわかります。直径1の円周の長さを知るために、円に内接する4角形から初めて8角形、16角形と倍々にしていき、なんと正2 角形 (17兆5921億……角形)まで計算しているのです。さらに外接四角形についても計算し、πをその間にはさみ込んで正確な値を出し、それをもとにπの公式を作り出しているのです。

( 6) 算額

 左は東淵寺(東京都台東区池之端2-4-25)

に掲げられている明治二年の算額の復元されたものである。

 算額とは江戸時代に算法(数学)を学んでいる者が難しい問題が解けたり、新しい問題を考え出したりしたとき、感謝の気持ちを込めて神社仏閣にその問題を絵馬にして奉納したことが始まりといわれています。記録上の最古の算額は1673年「算法勿憚改に「目黒不動に参詣したら数学の絵馬があったのでその写しを載せる」と出ています。現存最古の算額は栃木県佐野市の星宮神社にあります。全国に現存する算額は1000面近くあります。その中には現代に復元されて奉納されているものや、和算を普及する会や数学検定協会主催のコンクールのほうのうもあります。詳しくは和算の館のページをご覧ください。
 ところで藤田貞資が算額集を出版したことは( 5)「算法少女」の和算家に書きましたが、関流が広まった大きな理由がそれなのです。( 4) 和算家の系譜にもあるように、関流の中心は安島直円で研究内容の高さは藤田の比ではありません。しかし藤田は実業家にも向く才能を発揮したのです、それは自分たちの中だけの研究では誤りがあったり、良問が少ない場合もありますが全国から集めた算額ならばそういう心配はほとんどありません。今でいう全国大学入試問題集を発刊したようなものです。

( 7) 算法少女の中の問題

 少年少女歴史小説の算法少女の中にある問題は中学生でも解けるものから大学レベルのものまである。ここでは全文が判る問題を 取り出してみた。挑戦してみてはいかが。

  1. 21ページの問題

     半円に直角三角形が内接している、この直角三角形の内接円と弓形内に描いた最大円が相等しいとき、 外接円と小円の半径の関係を求めよ。

  2. 116ページの問題

     阿波の長者が下男に何でも望むものを申せといった。そこで下男は、米一粒を、ついたちからみそかまで、 毎日毎日一倍(二倍)にしてくださいといった。これをきいた長者は大いに笑った。

  3. 119ページの問題

     ここに商人が三人いる。一人は奥州へ行って、十六日目に帰る。一人は西国へ行って、二十四日目に帰る。 のこる一人は近国へ行って、五日目に帰る。三人は帰った翌日、また同じところへ旅立っていく。この三人が 一度顔を合わせてから、次にまたあうのは、何日目か。

  4. 131ページの問題

    円のうちに、大円二個、小円二個が接した形があるが、それらの大円小円は、またお互いに接している。 いま、いちばん外側の円の直径を七寸、内に接している大きい方の円の直径を三寸としたら、小円の直径はいかほどか。

  5. 139ページの問題

    円周率の精密な数の求め方を問う。

  6. 145ページの問題

    小石を三十まるくならべ、はじめの石を定め、五つ目にあたる石をとり、またその次より五つめにあたる石 を取り去っていくと、最後にのこるのは何番目の石か。

( 8) 算木と計算法

( 9) 和算書 算法少女

著 者壺中隠者(千葉桃三)
発行年安永乙未(四年)
(1775年)
 著 者小寺裕
 出版社ちくま学芸文庫
 発行年2009年
10頁
πの話 4頁
本文(上、中、下)38頁
πの公式 2頁
後記 2頁
この本はわずか56頁の小冊子で国会図書館、
東大図書館 などに数冊残っているだけである。
和算書「算法少女」の現代語訳と解説書である。

このホームページよりさらに詳しい和算の解説があるので
是非読んでほしい。

(10) 和算書「算法少女」に関する資料

  1. 明治前日本数学史 日本学士院編 岩波書店 1954年 第五巻(517〜518),第四巻(583)より

    これは和算書を出版時代順に解説している部分で奥付の紹介から始まり、全体の概略とその 批評がなされている。特に著者に言及して、「会田安明の算法約術三條之題(文化元年甲子8月) によって初めて本名が千葉桃三なることが明らかになった」としている。

    算法約術三條之題より
     其比千葉桃三ト云数学者アリ、是ハ算法少女ノ作者ニシテ関流皆伝ノ者ナリ。乃シ入江平馬保叔ノ 門人ナリ。其頃七十余歳ニシテ、世上ノ算者ニ応対スルコトモナシ。此者医者ヲナス。 -------------中略--------------
     故ニ予桃三ヲ訪フ。

  2. 算法少女著者考 三上義夫 東京物理学校雑誌 東京物理学校同窓会 1934年 第五百六号(31〜35)、五百七号(57〜61)より

    資料1の出典はこの三上の論文からである。
     会田安明の記した算法約術三條之題の内容から医者にして数学者であった千葉桃三なるものが「算法少女」の作者であるというのである。実際会田安明が訪ね、会ってて話をしたと記している。そこには娘のことは少しも書いて無く、「算法少女」の著者は千葉桃三と見たことは疑う余地がない、と三上は判断している。

     当時和算家の間では弟子の作を師の名前で公にすることはなく、師の業績を弟子の名前で発表する事は盛んに行われていた。 -------------中略--------------
    斯くして「算法少女」の書は章子の学識によって綴み出されたものでなくして、必ずや実際に書物の中に告白してあるとおりに、父なる隠者の撰術なりと見るの外なく、章子は其の編纂を手伝ったと云うくらいのものであったろう。
     このように三上は結論付けている。

  3. 数学史叢話 三上義夫 共立社 1934年 第二十四章より

    第二十四章 算法少女ノ著者ハ婦人ナリヤ
     1 澤田吾一翁ノ「日本数学史講話」ニハ開巻第一ニ「算法少女」ト題スル算書ノ 著者ガ一婦人デアルコトヲ論究シテ居ル。・・・・・で始まり、資料の中でも最も詳しく 論じている。

     そこでは「江戸時代に婦人の数学者は乏しく著書があることを知られた数学者は一人も知られていない」といっている。

  4. 日本数学史講話 澤田吾一 刀江書院 1928年 より

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