本能寺の変 真相はこれだ

 本能寺の変は織田信長がシナリオを書き明智光秀と羽柴秀吉が実行したものです。
そのシナリオは、信長を光秀に討たせ、その光秀を秀吉が討つという驚きの内容でした。

 なぜ信長は自分を光秀に討たせようとしたのか、それは自分が病気だったからです。
信長は戦のない国を目指していました。まさにそれが成し遂げられようとしたとき、自分の病が進行しおそらく
数か月持つかどうかではなかったかと思われます。もし自分が病死したら平定しつつあるこの国はまた戦乱の世
の中に逆戻りすることは明らかでした。一番避けたかったことです。そこで自分の後を継いで国を治めていく信頼
できる武将はと考えたとき、それは光秀と秀吉だったのです。しかし光秀は真面目で武将として大変優れて
いましたが、年齢は自分よりかなり上であり、また諸国の大名を従わせる自分のような強い力は持っていない
、 光秀ではおそらく数年もたたずに戦乱の世に戻ってしまうことになります。また若い秀吉はすべてに秀で適任
だと思いますが唯一の弱点が出自でありました。「自分は出自にとらわれず能力のあるものを登用してきたが、
世の中は違う。諸国の大名は決してそれを認めることはしない。」かといって秀吉に代わるだけの人物はいない。
信長は悩んだ末に秀吉が自分の後継にふさわしいと諸国の大名に認めさせる大義をつくることにしたのです。

 そこでとんでもない構想が生まれます。自分が病気で死ぬ前に、ある者に自分を討たせ、その討った者を主君
の敵として秀吉に討たせるのです。真っ先に主君の仇をとった者という勲章は代えがたい大義でした。
 そして自分を討つことを引き受ける者、信長は自分に忠誠を誓う人物として光秀にその役割をさせたのです。
自分を絶対的に信頼している光秀なら自分の考えていることを理解するはずです。三人の密談は繰り返され
シナリオは完成したのです。

 ここで様々な疑問が生まれます。

1 信長が病気であるという資料がない。
2 非道だと思われてきた信長の行動は戦のない世を作るということに反する。
3 光秀の信長を討つまでの行動と、討った後の行動の説明がつかない。
4 光秀に攻め込まれたとき信長の発した言葉「是非に及ばず」の意味は。
5 信長の死骸が見つからないのは。 
6 秀吉は信長の死をどうやって知ったのか、大返しはなぜうまくいったのか。

 などいくつも浮かびます。しかし信長のシナリオは用意周到に準備され、光秀も秀吉もそこにかかわったわけ
ですからすべての疑問は解決します。

1 病気だという資料がないのは、信長が病気を周囲に悟られないように演技をしたからです。そんな馬鹿な、
と思われるかもしれませんが信長が「うつけ」と言われたことはなぜか、頭が切れ、何でもできる信長が尾張を
足掛かりに行動を起こしたら周りの大名たちには脅威です。また身内の人間にも厳しい当主は疎まれると思います。
そのことを小さいうちから察した信長は「うつけ」を装うことで内外の敵から自分を守ったのです。誰もが信じた
「うつけ」の演技、病を隠すことくらい容易であったといえます。

2 比叡山の焼き討ち、伊賀の乱、石山本願寺攻め、一向一揆鎮圧など根こそぎ消し去るのはなぜか、僧兵、伊賀衆、
本願寺僧侶などを始末するのは戦をなくすためには必要なことだったのです。自分たちの主義主張の為ならば団結し
て行動するこれらは大変危険な考え方だと思っていたのです。宗教を疎んじたのではなく、宗教を隠れ蓑にした危険
な行為を望まなかったのです。そして禍根が残らないようにすべてを消し去ることにしたのです。

3 光秀は信長を討つ前は本当に悩んだと思います。いくら信長の命とはいえ主君を討つわけですから悩み躊躇し、
なかなか実行に移す決心がつかないでいた。やっとの思いで表したのがあの連歌の発句に表れています。もう行動
するしかないというわけです。そして討った後シナリオではこの後秀吉に討たれるため時間稼ぎをするのです。諸国
の大名に手紙を送って味方につけようとしたり、朝廷と連絡を取るなど様々な行動をとります。本来なら戦の準備を
して備えるはずなのですが、あえてやらずに、秀吉の来るのを待っていた。山崎の合戦でも自分が優位に立つ手筈は
整えることができるのに、秀吉に討たれることを想定している戦いでした。

4 信長が発したこの言葉は、なかなか光秀が計画どおりに動こうとしないため、信長は、光秀は何をしているのだ
というイラつきがありました。家康を饗応したときに信長と光秀が二人きりで密会していたということは信長が光秀に
秀吉からの連絡がきた、手はず通りにということを確認したものと思われます。しかし躊躇し渋っている光秀に信長は
光秀の気持ちを固めさせるため厳しく叱責するということをし、そのことがその時または後世に誇張されて伝わったの
が怨恨説の原因といえます。本能寺で襲撃を受けたとき、信長はどこの軍勢かと問い、明智軍ですと聞き(やっと来たか)
、何も言うな、(悩んだ末だ)という意味で発したと思われます。

5 戦の場合打ち取った敵の首を掲げて成果を誇示するのは当時当たり前ですが、それをすると信長が死んだことが
すぐにわかり、諸国の大名たちは相手が光秀ならば討ち取りやすしと考え、信長の仇を討つのは自分だと主張するために
我先にと攻めてくるでしょう。それでは高松城を攻めている秀吉に討たせることは無理です。そこで死骸を隠し光秀が
探し回るということにすれば、大名たちはまず信長の死を確認するはずです。そして確認できない状態ではうかつに動く
ことはできません。完全に時間を稼げるわけです。その間に秀吉が戻ってくるというシナリオだったわけです。

5 秀吉が知ったというより、秀吉が信長に連絡してこのシナリオが動き出したのです。高松城を攻めるのに水攻めを選んだ
のは、水攻めは準備さえすれば後は待つだけです。つまり攻撃を何度も繰り返していては自分の兵が疲弊してしまいます。
急ぎ京に戻りすぐさま光秀を討つには無理があります。大返しをするために力を温存しなおかつ途中の姫路城に武器等を
備えておいたわけです。 秀吉から信長に援軍の要請がありましたがそれは表向きで、「準備が整ったので光秀に実行させ
てください」、という合図だったのです。高松城は水攻めをしているので、援軍など最初から必要ないわけです。合図を送る
とともに、秀吉の手の者が光秀の実行はいつか逐一見張って秀吉に連絡していたのです。また秀吉は信長に合図を送る前から
高松城との和平交渉も行っていたからこそ、すぐに締結して京へ戻ってくることができたのです。

 こうして本能寺の変は、戦のない世の中を作るという信長の思いを光秀、秀吉が実行することで成し遂げられました。
信長が光秀と秀吉を信頼したからこそであり、光秀も信長を心酔していたがゆえにその志に共鳴したのだとおもいます。
秀吉もまた信長を心酔していましたし自分が後継であることが示せるので協力したのです。

2020.6.2

織田信長

信長は従来言われているように厳しく、だれにでも容赦ない態度で、厳しく対応し家来からも恐れられている。と思われていますが、
私はそうは思いません。信長はあまりにも周りとかけ離れたレベルの高い人間なのです。信長は頭が切れ、決断力、行動力があり、
人を見る目がある。また文化芸術にに造詣が深い教養人でありました。現代でもそうですが、頭の良い人は他人にも自分と同じとは
いかないまでも高いレベルを要求しがちです。また自分ができるのだから、他人もこれくらいできて当たり前、できないのは
怠けているからダメと言ってしまいます。同じことを信長も求めたに違いありません。人の上に立つ武将ならばこれくらいできて
当たり前、できないのは怠けているからだ。そういう姿勢が態度に現れ人を見下している、馬鹿にしているというように思われる
のです。
若いときはうつけと言われていたようですが、武士が庶民の中に入ってゆくのは勇気がいります。人に身分隔てなく接するという
ことは今でも難しいのに戦国時代にしかも武士階級の上位に属する人間が行っている。そのことが誰からも変わった人間うつけと
見られたと思います。またそれが自分を守ることになると感じていたと思います。

2020.6.28